2016年4月20日水曜日

「声なき声」に関心を持つ若手記者は、いかにして権力監視を行うのか。

先日懇意にさせていただいているあるメディアの方から、自社の新入社員が、新人研修で、揃って「権力との対峙もさることながら、『声なき声』を紙面で拾うような仕事がしたい」と口にしている光景を見たという話を聞いた。マスコミを目指す人がそういう主張をするようになってきたのか、それともそういう主張をする人を積極的に採用しているのかは分からないし、むろんひとつの事例ということにすぎないが、それでも歴史的な素養にはやや無自覚のようにも思えてくる。

というのも、「声なき声」に耳を傾けるというのは、かつて警職法改正や安保改定で追い込まれていた当時の岸信介首相がやや苦し紛れに口にしたセリフだからだ。そこには、連日デモが起きてるが、自分はデモなどに代表されないサイレントマジョリティを見ていて、それはたとえばデモの一方で後楽園球場に野球観戦に集まっているような人のことだ、という主旨がこめられていた。むろん政治サイドの体の良い言い訳である。

日本政治の文脈では「声なき声」という言葉には、このようなニュアンスがあるが、そのことを自覚して用いられたものだっただろうか。日本のマスメディアには少なくとももうしばらく権力監視機能の本丸でいてもらわなければ困る。その足元を支えるはずの新人の人たちが権力監視の前提となる歴史的文脈を押さえず、無自覚な表現を口にしているのだとしたら、いささか心許ないというほかない。最近はマスコミも業務範囲が拡大し、コンプライアンス重視の風潮もある、研修が急激に増加しているという(最近の大学のように!)。実質の伴った、現実的な量の研修への改善が急務に思えた。