2012年7月12日木曜日

なぜ日本で「白熱教室」が難しいのか?

今年から大教室の講義を担当するようになった。
大学の講義を担当してしばらく経ったが、これまで幸か不幸か小規模な20〜50人規模のクラスばかりを担当してきた。この規模のクラスは良かれ悪しかれ、受講者に目が届く。徐々に顔と名前が一致して、学生の個性も分かってくる。今年は時間割の関係かそれとも異なる何かが災いして、どの授業もずいぶん大規模化してしまった。これまでのクラスと比べると、ずいぶん多くの学生が履修するようになった。


百人を越えるような規模のクラスになると現実には全ての学生の個性を把握することは難しい。なかなか名前は一致しないし、だいたい学生は講義に集団でやって来て、同じような場所に座るから、グループでしか認識できない。しかも交代で出席していたりする。この規模のクラスになると、寝る学生、内職する学生、途中で出て行く学生、いずれも数週間でパターン化してくるが、いかんせん手の施しようもない。そもそも、こうした大規模講義の是非を問う声もあるかもしれないが、大学経営やカリキュラム上なかなか変えられないというのも現実なのだろう。こうしたクラスでは質問を振ると嫌そうな顔をされ、感想を問うと黙って下を向く、確かにこちらの力量に問題があるのだろうけど、こちらもそれなりに心が折れる。

こんなとき、マイケル・サンデルが脳裏をよぎる。サンデルの哲学の講義は、ハーバードでもっとも人気があるとされ、それが日本でも「白熱教室」として大きな話題を呼び、著書はベストセラーになった。そのサンデルの講義は大教室で行われてはいるが、数百人の学生に囲まれながらも、どんどん回答が困難な問いを出す。すると世界中から集まってきた優秀な学生たちがこぞって挙手し、回答しようとする。サンデルはその回答を鮮やかなまでに哲学史に結びつけていく。


確かにサンデルは優秀な教師としての資質を持ち、かつ同時に長いキャリアに裏打ちされた教育経験を持っていることだろう。しかも世界で一流の大学だ。単純に比較はできないし、してもしょうがないことは百も承知だ。それでも大学で講義を持っているものなら、きっとどこかでサンデルのような講義に憧れるのではないか。曲がりなりにも誰よりも「知的なもの」に関心があるからこそそういう職種についたのだし、一般に研究者は議論を好む。意見が一致せずとも、高度な知性を持つ相手と議論を深めたいとどこかで願っていると思う、たぶん。


日本版「白熱教室」が放送されてはいることからも分かるように、日本の大学、日本の教員によるサンデルのような授業が皆無というわけではないにせよ、どうにも現実は厳しい。殊、ぼくに限っては今のところ白熱した大教室講義運営のセオリーはつかみあぐねている。世の中は「グローバル化」や「リーダーシップ」に対する半ば強迫的な言説は溢れてはいるものの、多くの学生(と大教室における講義)は未だそちらにはいけずにいる、というのが少なくともぼく個人に限っていうなら現実だ。


しかし青臭いかもしれないけれど、大学が教育機関である以上、学生に倫理的な変革(気判的な解)を押し付けるよりも、まずは大学が、講義が、そしてぼく自身が変わるべきだという認識を持つ。繰り返すけれどぼくの力量に主たる問題はあるものの、横に座る級友の顔色を見て、連鎖する学生を見ていると、個々の講義の取組では限界があることも感じざるをえない。個々の授業の取組はそもそも課題が多くなったりすると履修自体が敬遠されるし、学生たちの横の同調圧力は強い。これらの要素が「白熱教室」を阻んでいるのはほぼ間違いないと思うのだけれど、これを「日本人の特性」と揶揄し、現実味がないままに、事実上多くの学生が結果的には敬遠する過剰な「グローバル化」や過剰な「リーダーシップ」の規範論を説くことにはあまり意味がないと思うようになった。必要なのは多くの学生にとって実効性ある解ではないか。

それがどのようなものかはまだ漠然としていてぼくもよくわからないし、そもそも「自分の力量をあげろ」という要素を多分に含むので難しいのだけれど、漠然と最近思うのは同調圧力の高さといった「日本人らしさ」を活かして、初年度教育に、通過儀礼的な要素を入れるということだ。大学に入ったら、それまで習ってきた横並びの「正解」を出すことではなく(というか、それらを捨てて)、正解がない問題に対して、級友たちと議論し、試行錯誤することに意味があること、そのために感想と意見を表明することが第一歩なのだ、ということを経験的に理解するような場を作ったらどうだろう。それでもぼくたちは「白熱教室」に到達しないだろうか。近年の大学では基礎ゼミのように、早い学年でリサーチや、プレゼン、レポートの書き方を並ぶ場もあるが、異文化体験と呼ぶまでにはいたっておらず、個々のクラスに委ねられているように見える。


稀有な例は、嘉悦大学のようにモチベーションの場づくりで定評あるNPO法人NPOカタリバなどと提携して、初年度教育に強く介入しているケースがある。知人たちからの伝聞に過ぎないが、中退率の改善などに大きく貢献していて、実践する側も手応えを感じているようだ。日本中退予防研究所も初年度教育に力を入れている。あるいは、学部から博士課程までいたSFCに思いを馳せると、あそこも「SFCらしくあること=なんでもいいので面白いことをかたちにすること」に対してきわめて強い同調圧力がある場所だった。それは入学の最初に誰しもが感じたのではないか。先輩や教員らもそういうことを望んでいたし、そもそもそういった「外れ値であること」が許容される場所を希求して望んで全国からやってきた同級生も多かったように、少し懐かしく思い出される。それはある種の通過儀礼に相当したのではないか。もともとそういう志向を持っているかどうかはさておき、学年丸ごとそのような経験を積ませるという意味において。


福沢諭吉が「半学半教」といったように、ぼくたちにも議論を通じて学び「伝統」があったのかもしれない。過剰に制度のせいにせず、かといって諦めもせず、個人の教育の力量を磨きながらシステム変革の問題提起をしていきたいと改めて思った。

※1ずいぶん、とりとめもなく長くなってしまったのは、いまいち核心が持てないからかもしれない。

※2実は大学院改革のお仕事のもっとも最初にとりかかるべきポイントもこのあたりにあるんじゃないかと最近思っているのだけれど、あまりに長くなってきたので、機会を改めて。

※3白田先生にプッシュしていただいて、読んでる人が増えたので、「てにをは」レベルで直しました。夜中にさくさく書いたのでちょっと日本語変でした(7/13朝)。