2016年3月1日火曜日

少年院と少年犯罪について

先週、2月26日に、茨城農芸学院を視察させていただいた。こう書いても、多くの方には、どこで、何を視察してきたか、伝わらないだろう。茨城農芸学院とは、第1種少年院にあたる。そこで、2時間ほどのスケジュールで、施設見学、レクチャー、質疑応答に参加させていただいた。短い時間ではあったが、その過程で、少年犯罪とその背景、プロセス、社会復帰の制度、そしてそれらの実情についてあまりに知らなかったことに気づくきっかけをいただいた。とてもこの問題について深く語る準備はできていないが、せめて教わってきた内容について共有するべく、エントリを書くことにした。視察にあたって、『無業社会』の共著者工藤啓さん、また井村良英さんに大変お世話になったことを記しておきたい。
まず少年院にいるのはどういった少年たちかというと、検挙され、在宅、もしくは少年鑑別所を経由して、家庭裁判所での審判を経たのち、逆送致、不処分、保護観察処分、児童養護施設・児童自立支援施設相当に該当「しなかった」少年たちということになる。
これは犯罪社会学などの分野ではよく知られているが、凶悪犯罪にフォーカスしがちなマスコミの報道の印象とは異なり、少年犯罪は戦後一貫して減少傾向にある。凶悪犯罪や人口比で見ても同様である。たとえば、警察庁生活安全局少年課が公開している『少年非行情勢』(平成26年1月~12月)によると、この10年でも両者は顕著に減少している。たとえば、平成26年の検挙された刑法犯少年の件数は約48000件、少年の人口比で6.8%。平成17年は、約12万人、15.9%であったことと比較しても、顕著に改善しているといえる。同調査によれば、殺人、強盗、放火、強姦という凶悪犯に限定しても、平成26年703件、平成17年1441件と半分近くに減少している。
茨城農芸学院でいただいた資料によれば、こうした少年たちのうち、「心身に著しい障害がないおおむね12歳以上23歳未満の者」を対象に、111名が社会復帰を図っている全国51の矯正施設のなかのひとつということになる。昭和24年に茨城農芸学院として発足し、平成27年に新少年院法が施行され、第1種少年院として指定を受けている。その特徴として、生活指導、職業指導、教科指導、体育指導、特別活動指導からなる新しい矯正カリキュラムのなかに、建設機械運転訓練コースを有する点があげられるということになる。確かに施設内に重機があり、その運転の訓練ができるとのことのようだ。
筆者らが受けたレクによれば、近年境界知性(相対的な低IQ)や発達障害、学習障害が疑われる少年らによる特殊詐欺(オレオレ詐欺等)の使いっ走り等で捕まるケースが増えているという。また社会復帰後も、居場所、職場に困ることも少なくなく、そこに再び犯罪集団が接触すると、再犯につながってしまうこともあるのだとか(ただし再犯率は概ね11%程度で、現在のKPIでは10%を割ることを目指しているとのこと)。ただし、こうした少年たちが置かれている/置かれてきた環境も、十分に考慮されるべきと感じた。生活指導の局面では、鼻をかむ仕方を少年院ではじめて学んだり、歯磨きや、持ち物の整理整頓の習慣もそこではじめて学ぶ人も少なくないのだという。こうした衛生面の習慣化がなされていないこともあって、冬場にはインフルエンザや感冒が大流行してしまうこともあるようだ。
日本社会の現状において、良かれ悪しかれ、職場と生活世界は密接な関係を有している。持続可能で、生産性の高い職に就くためのプログラムは、単に彼らに対するサポートというだけにとどまらず、犯罪への再接触を阻むという意味で、非当事者にも意味があるように感じられた。少年犯罪を犯した彼らをとりまく環境面でのビハインドは、彼らの社会復帰を考えるにあたって、十分に考慮されるべき点があるのではないか。
最近では、お好み焼きチェーンを展開する千房が、元受刑者たちの雇用を提供し、社会復帰を応援していることが知られている。たとえば、以下の記事など参照のこと。
お好み焼き・千房の「経世済民」 元受刑者らを雇用する企業理念- SankeiBiz(サンケイビズ)
確かに少年犯罪の加害者としての責任も鑑みなければならないが、同時に彼らが再び社会に定着し、犯罪に手を染めずに生活を送るために、どのような対策がありえるのか。現状、残念ながら筆者は十分に論じきるに十分な知識をもたないが、それでも就労支援という面では、やや前時代的なプログラム中心で、現代的なプログラムに乏しいという側面はありそうに思えた。ITスキルやインターネット、サービス産業に必要なプログラムは、現状、十分には提供されていないように見えたからだ。「自己責任」というラベリングのもと、社会から切断してしまうことは容易だが、おそらくそれでは犯罪の根絶という点で、非当事者の便益向上にも結びつかないだろう。社会的便益に加えて、包摂性にも優れた社会はいかにして可能か。そのような問いを改めて突きつけられた貴重な機会であった。