研究室情報【進学、研究生、共同研究等希望者等向け】

西田亮介研究室について (about Dr. Ryosuke NISHIDA's Lab.@titech)
東京工業大学環境・社会理工学院社会・人間科学系 社会・人間科学コース 西田亮介研究室の研究室情報です。
研究室(修士課程、博士課程)への進学、研究生の希望者は、よく読み、 原則として、
十分な時間的余裕をもって事前に連絡し、 個別面談を受けて下さい(海外、遠方在住等の場合はSkypeなどでも可能です)。
(日本語)

(English)

オンラインサロンを始めました。初月無料、社会人2000円/月、学生1000円/月。平日毎日更新。週1選書。月1読書会。
「西田亮介の新書、文庫、雑誌で始めるリベラルアーツゼミ」

2015年4月29日水曜日

(言論空間を考える)政治権力とメディア 曽我部真裕さん、金平茂紀さん、西田亮介さん


4月28日付の朝日新聞オピニオン欄に、写真付きで長いコメントが掲載されました。政治とメディアの関係について、具体的には、自民党とNHK、テレビ朝日の問題です。曽我部先生が法的問題を、金平さんが記者としてのご自身の体験を、西田は2010年代の日本の政治とメディアの関係を紐解きながら、問題の背景を読み解いています。

なおこの件は昨日、大きな進展がありました。テレビ朝日の一人負けなのではないかと見ています。機会があれば、何か書いてみます。

(言論空間を考える)政治権力とメディア 曽我部真裕さん、金平茂紀さん、西田亮介さん - 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/DA3S11727802.html

Ryosuke Nishida and Noritoshi Furuichi Discuss "Young People and Work in Japan" in the U.K.

昨年11月に、国際交流基金のスポンサードで、古市憲寿さんとイギリスに視察、講演にいったときの様子を紹介した英語版のページができたそうです。

Ryosuke Nishida and Noritoshi Furuichi Discuss "Young People and Work in Japan" in the U.K. | Wochi Kochi Magazine

http://www.wochikochi.jp/english/report/2015/01/ryosuke-nishida-and-noritoshi-furuichi-discuss-young-people-and-work-in-japan-in-the-uk.php

2015年4月27日月曜日

ナナメの関係、目的があってもなくても良い居場所、最新設備、2020年の学びの標準をb-labに見た


b-labの内装
先日、教育系NPOの先駆けとして知られる認定NPO法人カタリバが、文京区からの委託を受けて運営する文京区青少年プラザb-labを見学させていただいた。このb-labには、それぞれ詳しくは後ほど紹介するが、先取りされた2020年の学びのスタンダードを見た。
「b-lab」とは文京区が用いた青少年向けの複合施設の名称である。行政組織らしからぬポップな名称は、中高生に向けた公募で決まった。最寄り駅は各線本郷三丁目駅か、千代田線湯島駅。周囲には東京大学や、桜蔭学園などがある閑静な住宅地のなかに立地する複合施設だ。「中高生に自主的な活動や、地域や異年齢交流の場を提供し、自立と社会参加を応援」することを目的に設けられた(「文京区教育センター等建物基本プランの事業概要」)。
文化事業、スポーツ事業、学習支援事業、利用者による自主事業、中学・高校の部活等の合同行事(横断的な組織構築)を実体化する施設であり、「『何かやってみようかな』を応援する」、「地域の中の自分を自覚する」、「様々な人との関わりから社会性をはぐくむ」ことを具体的な目標に掲げている(「文京区教育センター等建物基本プランの事業概要」)。ある意味ではどこの自治体でも利用可能な「学校支援センター」のスキームを応用して作られたもので、教育行政上の手腕も注目すべきである。
b-labの音楽スタジオ入り口
b-labの音楽スタジオ入り口
とはいえ、b-labはとてもユニークな空間だ。塾のように、勉強に特化した空間ではない。音楽用の専用機材を備えたスタジオやバスケットボール・コートなども用意しており、いろいろな使い方ができる。そして、その使い方は、運営事業者であるカタリバやスタッフ、ボランティアなどに、程よくマネジメントされながら、それぞれの中高生に委ねられている。英会話教室や大学生による学習指導もあり、勉強「も」できるし、勉強以外のこと「も」できる。つまり、明確な目的があってもなくても、この空間を利用し、居場所にすることができる。そして、自分自身を振り返ってみてもそうだが、中学高校時代に明確な目的を持つことができている人は多くはないのではないか。
従来、塾のように教学に特化した場所はあれども、それ以外の分野で、音楽スタジオのような音楽施設を用意し、その使い方まで教えてくれる場は少なかった。学校外の身近なところに、20代~30代の年の近い大人がスタッフ、ボランティアの中心となったこうした場所があれば、ある種、人間関係などが固定化し、閉塞してしまうこともある中高生にとって、身近な先輩から学ぶべき点は少なくないだろう。近隣の中学高校など、近くても意外と知り合う機会が少ない同世代と知り合う機会にもなるはずだ(ちなみにカタリバは、こうした緩やかな関係性を、同級生というヨコのつながり、先輩後輩というタテのつながりに対して、「ナナメの関係」と呼んでいる)。
このあたりの、中高生が自ら考え決定し、作り上げたという感覚とセルフエスティームを獲得しながら、同時にリスクを除外したり、それとなくうまく馴染めずにいる子どもたちを巻き込んでいく「程よいマネジメント」の感覚は定量化するのがなかなか難しいが、これまで10年近くにわたって、高校生や大学生とかかわってきたカタリバのノウハウが絶妙に活かされているように見えた。カタリバは、そうした事業の作りこみが、とてもうまい。人材も抱負だ。
b-labでの予期せぬ議論の輪(手前が筆者)
b-labでの予期せぬ議論の輪(手前が筆者)
ところで、視察に伺ったときに、たまたま今村亮館長が、筆者の専門から「社会や政治に関心がある」という男子高校生を連れてきた。話を聞いたり、議論をしていたら、勉強の仕方やキャリアに興味があるという桜蔭学園の中学生2人も話の輪に参加し、そのまま我々は2時間近くに渡って戦後史、電子辞書と紙の辞書の違い、文系理系の選択と将来の学費(!)、就職への影響などを話した。
自分でいうのもなんだが、なかなか大学教員とこういう話をする機会も多くはないのではないか。少なくとも自分が中学高校のときには、そんな機会はなかった。むろん友人でもある今村館長にまんまとのせられたという気がしなくもないが、筆者もあまり経験したことがない不思議な、しかし豊かな議論の輪だった。そしておそらくこうした輪は、b-labにとっては、日常茶飯事なのだろう。今村館長の振る舞いは、ごくさり気ないものだった。
ただし、一般化という点では課題もある。学校支援センターの手法自体は一般的でありながら、財政上の制約もあり、b-labほど施設や委託事業に資金を投入できない自治体が大半だろう。またカタリバのような主体が地域に必ずしも存在するとは限らない。そもそも文京区、あるいは都市部と異なり、そもそも十分な教学、学習環境が整っていない地域も多いだろう(文京区は結果的に、すでに多くの勉強に特化した施設や塾があったうえで、b-labが立地している。どちらが重要かは甲乙つけがたいが、塾が必要ないとは筆者は思わない)。
とはいえ、これらはb-labの課題というよりは一般化を考慮した課題である。したがって、b-labをそのまま模倣しようとするのではなく、利用可能な資源のポテンシャルを、それぞれの地域課題を参照したうえで、いかに引き出すかという点が重要だろう。
しかしb-labの実践は、またそこで起きている人間関係の形成や施設の作り方、学習機会は高大接続や大学入試改革の議論で、まさに渦中に取り上げられているものともいえる。その意味においては、2020年代の新しい学びのスタンダードを先取りしているともいえる。未来の教育を先取りしたプロトタイプの、今後を注視したい。
文京区在学在住の中高生なら是非とも一度訪ねてみるべきだし(1人で訪ねてもまったく問題ない)、大学生や社会人ならボランティアなどで関わってみても良さそうだ。以下にいろいろな関わり方の案内が載っている。施設見学会も定期的に開催されているので、そこに参加するのも良さそうだ(中高生向けの施設なので、リスクの観点からしても、突然の訪問は好ましくないので注意したい)。
「ビーラボへの関わり方」

2015年4月26日日曜日


3月、4月と例外事態と緊急案件がいろいろ発生して、あまりサーフィンできなかった。短い時間や、スケジュールの突然の空きでいけるジムとは違い、自然が相手なので、なかなか難しい。とはいえ、ジム通いがかなり習慣化したので、身体のキレ自体は以前よりずっと良い。10年位前に入手したシングルフィン・ショートボードを引っ張りだしたら、なかなかおもしろかった。浮力があるので、久々にサーフィンするときなんかには良いし、シングルフィンは動きがシンプルで気持ち良い。最近、新しい、ハイパフォーマンスなシングルフィンショートボードもあったりすると聞く。気になる。ジムは仕事の延長線のようで、フィジカル、メンタルのコンディションを保つには悪くはない、というより、ストレス・マネジメントとしても不可欠だが、サーフィンは違う。都内からだと千葉にせよ、湘南にせよ1時間半弱の運転は必須なうえに、大仰だ。だが、サーフィンしているときだけではなく、そのプロセス全体が「趣味」に思える。

2015年4月20日月曜日

NHKとテレビ朝日聴取問題における政治からメディアへの「圧力」の本質はどこにあるのか

自民党が、4月17日に情報通信戦略調査会において行った、NHKとテレビ朝日の聴取が、波紋を読んでいる。
強まる「政治圧力」 自民、テレ朝とNHK聴取 報道萎縮の懸念(北海道新聞)- Yahoo!ニュース
政治からメディアへの圧力や萎縮効果の有無、あるいは違法性に対する懸念が議論の中心のようだ。だが、先日のエントリでも論じたように、政治からメディアへの圧力や萎縮効果の「有無」とその「是非」ばかりを問うてみても、あまり実りある成果は期待できない。
NHKとテレビ朝日の聴取は、歴史的に見ても、業界自粛を促す、政治からの効果的なアプローチ(西田亮介)- Y!ニュース
というのも、政治からメディアへの何らかの「圧力」は存在するに決まっているからである。ここでいう「圧力」とは、有形無形の力学のことであり、政治の意図をメディアにも貫徹させようとする働きかけのことである。政治は公式/非公式に、こうした働きかけを頻繁に実施している。首相とメディア首脳陣の会食から、記者会見まで、そこには政治からメディアへの意図が込められている。
とはいえ、政治とメディアの利害関係は、いかに日本における両者の距離が近いといっても、常に一致するわけではない。一致することもあれば、一致しないこともある。また政治からメディアへの一方的なものだけではなく、メディアから政治への圧力も存在する。リクルート事件やロッキード事件などを思い出してみても、メディアが政治に強い圧力をかけることもある。
両者のあいだには、一定の緊張関係があり、その力学は状況のなかで、時々刻々と変化しながら、常時存在しているといえる。したがって、まず圧力や萎縮効果の有無を騒ぎ立てても、つまり両者を、原理主義的に二項対立で捉えても、あまり問題の本質を指摘することには繋がらない。
むろん「圧力」の違法性を問うてみる作業は、一度は必要であろう。政治とメディアの独立の重要性はしばしば指摘されるとおりである。今回の出来事を批判的に捉えるひとつの論拠は、放送法であろう。だが、放送法が原則として定めているのは、放送番組編集の自由である。
(放送番組編集の自由)
第三条  放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。
とはいえ、さすがに聴取のみをもってして、直ちに放送法に違反するとまではいえまい。あるいは、控えめに考えてみても、その違法性を確定させるためには長い時間と多くのコストを必要とする。また先日のエントリでも記したように、民主党もNHKに対する聴取を行ったことがある。もちろん与党と野党、公開/非公開など、本質的には性質の異なる問題だが、世論において今回の事態と五十歩百歩のような印象形成は十分生じうるだろう。
萎縮効果や圧力の有無を騒ぎ立てるいっぽうで、こうした曖昧な、そしてあやまった印象形成、世論形成が進んでしまうことこそが、もっとも強力な政治からメディアへの圧力(の端緒)になるはずである。
実際興味深いのは、自民党側も批判側と同様に、「中立」の論理と放送法違反の論理を持ちだしてきていることだ。
時事ドットコム:テレ朝に「中立」要求=昨年11月、「報ステ」問題視-自民
こちらの指摘は、放送法の第4条4項の違反である。
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
どうだろうか。世の中でそれほど放送法の内容までは認知されていないという点に留意すれば、確かに両者は互角に論争しているようにも見えてくるのではないか。
問題の所在は、その先にある。自民党は、今回のような事態の「問題解決」のために、放送事業者の自主規制機関であるBPO(放送倫理・番組向上機構)への政府の関与を示唆している。
自民党:BPOに政府関与検討 「放送局から独立を」- 毎日新聞
この記事も指摘するように、日本の放送制度は、免許制になっている。そして、そもそも現状でも、政治とメディアの独立についての問題提起されている。放送事業者が、総務相に免許を求めなければならないからだ。
とはいえ、一見、自民党による放送事業者の自主規制機関であるBPOの独立要請には、一定の合理性があるような印象を受けるかもしれない。
たとえばアメリカで放送事業者を規制監督するFCC(Federal Communications Commission: 連邦通信委員会)も、連邦政府から独立した機関だが。だが、その大前提として、アメリカでは放送事業者は、政府ではなく、政府から独立したFCCに免許の交付、更新を求める仕組みになっている。
その一方で、日本のBPOは、FCCと語感こそ似ているものの、現状、放送事業者の自主規制機関であるという差異がある。BPOの「BPOとは」には、以下のように記述されている。
放送における言論・表現の自由を確保しつつ、視聴者の基本的人権を擁護するため、放送への苦情や放送倫理の問題に対応する、第三者の機関です。主に、視聴者などから問題があると指摘された番組・放送を検証して、放送界全体、あるいは特定の局に意見や見解を伝え、一般にも公表し、放送界の自律と放送の質の向上を促します。
※BPOはNHKと民放連によって設置された第三者機関です。
したがって、自民党による、BPOを放送局から独立させ、政府関係者や官僚OBを参加させるという提案は、メディアに対する実効的で、相当程度強力な萎縮効果をもたらすと考えられる。アメリカの制度設計で大前提となっている放送事業者の政治からの独立については担保されていないにもかかわらず、放送に関する疑義が生じた場合の審議機関であるBPOに、政府関係者や官僚OBなどが参画することを意味するからだ。政治が問題提起を行った場合、申請者と審議者の距離が相当程度近いものになることは明白であろう。
このとき、そもそもこうした駆け引きそれ自体を批判する向きもあるかもしれないが、明確な違法行為を除き、さまざまな状況で利益の最大化を模索するのは政治の常道でもある。選挙で判断するほかないが、16年の参院選まで国政選挙は存在せず、またそこまで有権者がこの問題の詳細を記憶しているとは、過去の経緯を鑑みてもあまり期待できない。その意味でも、今回の聴取は、実に巧妙な、「政治のメディア戦略」といえる。
懸念されるのは、すでに冒頭述べたように、批判論の多くが、圧力の有無や慎重対応という抽象論に留まっていて、前述の『毎日新聞』の記事のように実質的な問題の所在を指摘したうえでの議論が少ないことだ。政治とメディアの緊張関係が弱いと、左右双方から指摘される日本である。両者の緊張関係のいっそうの弱体化は、日本の安定と繁栄、民主主義や政治を毀損しかねない。形骸化した議論にとどまらず、問題の本質に目を向けつつ、事態の動向を注視したい。

2015年4月17日金曜日

NHKとテレビ朝日の聴取は、歴史的に見ても、業界自粛を促す、政治からの効果的なアプローチ

自民党が4月17日に、NHKとテレビ朝日の幹部の聴取を行うことが話題になっている。
自民の放送局聴取が波紋=野党「番組干渉は違法」(時事通信)- Yahoo!ニュース
確かに、政治とメディアは、原理的には、それぞれ自立し、緊張関係にあるべきだが、そもそも日本のメディアはそもそも日常的にそのような状態にあるとはいえない。つまり政治との緊密な関係性(例えば記者クラブ、番記者制等々)のなかで報道を行っている。また野党による「番組の干渉は違法」という繰り返されてきた主張と見出しが目立つが、番組制作に対する干渉は違法であるものの、聴取として実行される以上、クロに限りなく近いものの、法的にはグレーゾーンの範囲内に収まってしまう可能性が高い。
民主党もNHKの聴取を行ったりしているので、与野党の違いによる影響力の差は考慮すべきであると同時に、その主張の形式が一般に説得力を持つようにも思えない。少なくとも、世論の強い関心を惹起するには至らないだろう。
NHK「やらせ」問題 民主党、NHKから聞き取り調査(フジテレビ系(FNN))- Yahoo!ニュース
このあたりは、統一地方選直前の政治とカネの問題なども思い出してほしい。結局、民主党の側からも似たような案件が出てきて、うやむやになってしまった。
他方、なぜNHKとテレビ朝日かという点を考えてみると、改めて現政権のメディア戦略が際立って興味深い。NHKは放送法が定める公共放送を担う特殊法人で、政治的に公平中立であることが求められるものの、概ねリベラルな立ち位置であった。そのことで、とくに2000年代になってから、幾度も政治との軋轢を引き起こしている。政治と揉め事を起こしたくないのが本音だろう。
テレビ朝日の場合、「報道ステーション」の、個人的にはあまりにしょうもないとも思えるコメンテータの発言が、今回の出来事の引き金になっているが、約20年前の1993年に、テレビ朝日はより深刻な政治との軋轢を起こした経験がある。通称として、個人名が事件名になっているので直接言及することは差し控えるが、当時のテレビ朝日の取締役が政権交代にメディアも貢献したとも捉えかねない発言をしたことが政治的に大きく問題視された。その記憶がある当時30代~40代の中堅だった人々が、現在も中枢を担っている。そのことを鑑みても、萎縮効果を引き出すことが期待できる。現在の「政治のメディア戦略」が、「メディアの政治戦略」よりも一枚上手であることを物語っているともいえよう。
こうした萎縮効果を肯定しているわけではない。ここで指摘したいのは、こうした「圧力」に対して、紋切り型の「違法だ」といった反応をしたところで、実質的には対抗できず、「政治のメディア戦略」が機能してしまいかねないという点である。倫理面を考えるとグレーだが、かろうじて合法の範囲内で、戦略と戦術を競うのは政治の常道でもある。
各メディアは騒ぐよりも、カウンターの、つまり「メディアの政治戦略」の知恵を絞るべきではないか。政治との緊密的な関係のなかで比較的均質かつ特オチを恐れる文化で発展してきた日本メディアは、そのような経験が乏しいこともまた事実だが、海外メディアに目を向けてみると、イギリスにおけるBBC vs サッチャーなどのように、幾度も政治との緊張関係を経験している(そして、ときにメディアが負けているケースもあることを想起したい)。
現政権は保守系メディアに情報を先出ししたりと戦略的になっている。といっても、拙著などでも指摘したように、2000年代以後の、緩やかな政治の、正確には自民党のメディア戦略の変化でもあった。メディアも、これまでとは違った対抗戦略を形成していかない限り、権力監視の役割を果たすことができなくなってしまいかねない。
政治に緊張関係をもたらす(そして、願わくば提案的な)存在であるはずの野党が、現状、数でまったく対抗できずにいる。そのような、現在の政治環境のなかで、本来メディアと、そしてジャーナリズムは、「第四の権力」として民意を反映しながら、政治に緊張感を生み出す可能性を持った、希少な存在である。従来のメディアと政治の緊張時において、紋切り型で脊髄反射的な反応に終止するのみならず、実践的な「メディアの政治戦略」を構想し、実践すべき時期なのではないか。
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最後に、4月10日に発売された最新号の『Journalism』誌の特集「選挙報道はどう変わるべきか」に寄稿した拙稿「高度なデータ分析で「イメージ政治」を読み解き、政治に緊張感を取り戻せ」とも関係する内容であることを追記しておきたい。

2015年4月14日火曜日

なぜ、メディアの選挙報道は有権者に伝わらないのか――客観報道に加えて、意味内容の解説を

統一地方選挙の前半戦が終わった。メディアはその投票率の低さを報じている。2014年末の衆院選も投票率が戦後最低だったことが話題になったが、今回の選挙でも投票率の低さが目立った。
統一地方選前半、投票率過去最低に:日本経済新聞
上記の日経新聞の記事は、以下のように伝えている。
10の知事選では、半分の5県で投票率が50%を割った。10知事選の平均は47.14%となる見込みで、統一選として過去最低だった2003年の52.63%を下回り、初の50%割れとなる。
41の道府県議選では大半が過去最低を更新。平均は推計で45%前後とみられ、これまで最も低かった11年の前回統一選(48.15%)を下回る。
むろん、各有権者が主体的に政治に関心を持って投票に行くことが望ましい。他方、現実に有権者が政治に対して関心を失っているのなら、普及啓発も必要だ。関連して、幾つかの記事を書いてきた。
社会に政治を理解し、判断するための総合的な「道具立て」を提供せよ――文部省『民主主義』を読んで(西田亮介)- Y!ニュース
「無音」の統一地方選、早急に政治と民主主義を理解するための「道具立て」の導入を(西田亮介)
Yahoo!ニュース個人はオンライン・メディアだが、メディアの影響力といえば、今のところ、日本社会ではマスメディアが顕著に強いとされている。ここでいう「影響力」とは、さしあたり視聴者数と、各視聴者がメディア体験を経て行動に反映するか否かという変数を掛けあわせたようなものだとイメージしておいてもらえれば事足りるだろう。
他方で、その割には、選挙報道は選挙が来る度になされているにもかかわらず、今回の統一地方選のように大きな争点が顕在化していない選挙の場合、いくら「投票率が下がる可能性」をメディアが報じても、一向に投票率が上がらないのはなぜだろうか。もう少し抽象度を上げて言い換えると、なぜ、メディアの選挙報道は有権者に伝わらないのだろうか。
「メディアの議題設定機能」といったりするが、日本の場合、マスメディアが主導して大々的なキャンペーンを展開することは少ない。放送法が規定する政治に対する公平中立性を重視するため、リクルート事件のように刑事事件の可能性があるケースを除くと、積極的に争点を作っていくことはあまりない。こうした日本のメディアのあり方を「偏向している」という見方もあるが、アメリカでも公平性原則が撤廃されるまでは政治的中立性に配慮するよう求められていた。
だが、マスメディアは、事実報道に終止するあまり、その意味内容を受け手に伝える努力を(意図せず)怠ってしまっている可能性があるのではないか。以下の京都府議選と市議選に関する2本のニュースを見てみてほしい。
自民第1党、共産は第2党に 京都府議選(京都新聞)- Yahoo!ニュース
京都市議選、自民第1党 共産上積み、民主大敗(京都新聞)- Yahoo!ニュース
ここで京都と京都新聞を取り上げたのは、筆者の勤務地だからという程度の意味しかないが、多くの統一地方選に関する報道は、概ねこれらの記事のように選挙結果と議席の動向を取り上げている。もちろん新聞紙面で見た場合、ページを繰っていけば、もう少し踏み込んだ分析的な記事も掲載されているかもしれない。だが、おそらく1面や目立つページはこうした選挙結果とその客観的動向を中心に取り上げているはずだ。
これらのニュースを読むと、確かに選挙結果と動向はよく分かるように思えるかもしれない。だが、これらの記事からは、京都府、京都市の政治で、これから何が起こりうるのか、どういった政策が推進されていく可能性が高まるのかといった意味内容は、全くわからない。おそらくは、相当京都の政治動向に詳しくないと、結局その意味は受け手には伝わらないと思われる。そのような記事を、最初から最後まで読むだろうか。
たとえば具体例を挙げてみると、京都市議選の記事では、図のなかに「過半数ライン」が引かれているが、自民、共産の順番で並んでいるので、自公が連立すると京都市議会では過半数を越えるということも文章では説明されておらず、行間を読まなければ分からない。
「そこまで説明する必要があるのか」という意見もあるかもしれない。だが、とくにあまり政治に親しみを持たない読み手にとっては、従来のメディアの「常識」を越えた、意味内容の解説が必要ではないか。
前半で取り上げた筆者の過去のエントリなどでも少し記したように、日本ではまともな有権者教育が提供されておらず、多くの有権者にとって、政治や民主主義、政局、それらのメカニズム等々が、ブラックボックスになっている可能性がある。池上彰氏のニュース解説番組が支持されるのは、池上氏の解説が、極めてわかりやすく社会的な問題を理解する補助線を提供しているからでもあるだろう。
「教養ブーム」の背後にも、類似のニーズが偏在しているかもしれない。メディアの選挙報道記事は、記事中の数字こそ変わるものの、全体の体裁は、暗黙裡にメディア内で引き継がれている。字数制限があるのはわかるが、今一度、その役割と機能、内容を見直してみてはどうだろうか。
かつて、マーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」と述べた。新聞記事が単体でネットに出たり、またネットファーストの新聞記事も登場するようになった。読者の高齢化に対応して、新聞の文字サイズは年々大きくなっていくが、記事の形式も、客観報道に加えて、意味内容をどのように受け手に伝えていくかという観点から見直すべき時期にきているのではないか。

2015年4月13日月曜日

「無音」の統一地方選、早急に政治と民主主義を理解するための「道具立て」の導入を(西田亮介)

津田大介さんによる「politas」に、統一地方選について寄稿しました。津田さんの労力とコスト、毎回、頭が下がります。

「無音」の統一地方選、早急に政治と民主主義を理解するための「道具立て」の導入を(西田亮介)
http://politas.jp/features/5/article/369

2015年4月11日土曜日

5月14日(木)19時〜@ゲンロンカフェ 石戸諭×西田亮介「18歳からの政治参加入門――インターネットと政治を考える」

約1年ぶりのゲンロンカフェ登壇、なのでは・・・毎日新聞社の石戸諭記者と。

5月14日(木)19時〜@ゲンロンカフェ 石戸諭×西田亮介「18歳からの政治参加入門――インターネットと政治を考える」

(以下、http://peatix.com/event/84252 より引用。申し込みもリンク先から)
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【イベント概要】
選挙権を持つ年齢をこれまでの20歳以上から18歳以上へと引き下げる法案が、今の国会で成立する見通しだ。
実施されれば70年ぶりの選挙権年齢の改正となる。
しかし、選挙権を引き下げるだけでは、若者は政治に関心を持つようにならないだろう。
では、どうすれば若者の政治参加が実現されるのか。
新技術が政治を変えはしないことは2013年のインターネット選挙運動の解禁で証明された。
楽しければ政治参加は拡大する、専門家だけが協議すればいいといった安易な思考はやめ、新しい路線を探索しなければならない。
ネット選挙と若者の政治参加を論じてきた若手社会学者西田亮介と毎日新聞記者石戸諭による、18歳からの政治参加入門。

新しいお仕事


大学と、勤務先の双方の手続きを踏んで、正規の非常勤地方公務員になりました。「広報広聴アドバイザー(仮称)」という職種をつくっていただいている模様。まずは、ということで関連資料をかなり読み込んでいますが、やはり現場にはいろいろな発見があります。

2015年4月10日金曜日

『週刊東洋経済』「貧困の罠」特集が指摘する、政府のデフレ脱却論と厚労省の生活保護基準引き下げの矛盾

『週刊東洋経済』誌が、2015年4月11号で「貧困の罠」特集を組んでいる。早々に購入しようと思いつつ、ついつい買うのが遅れた。先日ここでも取り上げたが、最近、経済誌が相次いで貧困特集を組んでいる。
必要なのは福祉「と」投資――『日経ビジネス』「2000万人の貧困」特集から- Y!ニュース
同誌の特集の目次は、以下の通り。
あなたを待ち受ける貧困の罠
国際比較で見た「生活保護」 日本の特徴は家族まかせ
ルポ1追い込まれる弱者たち
年金だけでは暮らせない 老後破綻の恐怖
6世帯に1世帯が貧困 困窮する子育て世帯
東京・豊島区 住民の「おせっかい」が子どもを貧困から守る
辞めたくても辞められない バイトに潰される苦学生
(元AV女優・日経記者が歩く) 女性の貧困最前線
政策を問う迷走を続ける貧困行政
生活費も家賃もカット 改悪続く生活保護制度
あの芸人の親は不正受給ではなかった はびこる生活保護への誤解
厚労省が物価を偽装? 揺らぐ保護費削減の根拠
新たなセーフティネット 自立支援法は機能するか
独自推計マップ貧困のない県も! 広がる地域格差
INTERVIEW| 私ならこうする!
竹中平蔵/慶応義塾大学教授
「もっと規制緩和を進めるために貧困対策が必要だ」
阿部 彩/首都大学東京教授
佐野章二/ビッグイシュー日本代表
ルポ2広がる労働者の格差
増え続ける派遣・パート ワーキングプアの蟻地獄
進む親の高齢化 就職氷河期世代ひきこもりの憂鬱
ケースワーカーも不安定 悲鳴上げる非正規公務員
ワーキングプア解消の切り札? 広がる公契約条例の実態
経済誌における非経済的話題は余興と過去の実績に基づくルーチンワークと見られがちだが、同誌の特集は43ページを割り当てており、ボリュームのみならず、なかなか充実した、出色の企画だった。同誌読者が関心を持ちやすいように、同誌の佐藤優氏の連載の言葉を借りれば「がっついたビジネスパーソン」と思しき、年収1000万の人が貧困に陥るまでの経緯を描くルポを入り口におきつつ、データや事例を見せていくといった工夫もなされている。
貧困のスティグマ制や欧州との比較、自己責任論の誤謬、子どもの貧困等々、最近の話題がよくまとめられているので、ぜひ手にとって欲しい。貧困が意外と生活者にとって身近なものになってしまっていることがよく分かるだろう。
個人的に見所の一つと思えたのは、脱デフレと、生活保護制度における生活扶助費の引き下げの矛盾を取り上げた、中日新聞編集委員の白井康彦氏による「厚労省が物価を偽装?揺らぐ保護費削減の根拠」という記事である。生活扶助とは厚労省の定義によれば、「日常生活に必要な費用(食費・被服費・光熱費等)」ということになる。
この生活扶助の算定基準の見直しが進められている。その理由は、「物価の下落」だという。他方で、よく知られているとおり、最近は物価の値上がりが顕著になっている。デフレの象徴と目されていた牛丼の値段も各社が値上げを始めている。
牛丼はさておくとしても、安倍政権の成果の最大の目玉は「脱デフレ」のはずである。やはり厚労省だけが、計算方法や期間の取り方によって物価が下がり続けている、ということを強弁するのはさすがにおかしい。独自の方式ではなく、総務省の「消費者物価指数」を利用しない、合理的理由があるのだろうか。
厚労省の「生活扶助基準の見直しに伴い他制度に生じる影響について」(リンク先PDF)という文書を読むと、生活扶助以外にも、さまざまな制度で見直しが始まっていることがわかる。とくに、子どもの医療費等に関する分野を中心に、生活保護世帯の負担額が増えていることがわかる。こうした見直しは言うまでもなく、医療機関にかかるインセンティブを損なう可能性がある。
子どもの貧困などの問題が社会的に取り上げらている昨今、この辺りはきちんと説明しないと、さすがに納得できない。政治でも、もっと取り上げてみてほしい分野である。
セーフティネットの脆弱性は、社会を毀損する。確かに、生活保護という制度自体にも見なおすべき点はある。ただし、それは生活扶助基準の引き下げといった対症療法ではなく、もっと原理主義的なものになるはずだ。同誌の特集も指摘しているが、世帯や親族関係のなかで貧困を規定することは、今後ますます難しくなるだろう。制度自体が複雑化して、一般に理解しにくくなっているという問題もある。とはいえ、生存権の保障は、憲法25条が規定し、また国家が存在する、もっとも重要な理由のひとつである。明らかな機能不全に直面しているいま、やはり「貧困」の定義や、「最低限」の定義も見直す原理主義的な議論も必要であろう。
同誌の特集も含め、最近、相次いだような一般誌での貧困特集は潜在的な国民の不安感を浮き彫りにする。だが、それと同時に、貧困が社会のなかできちんと取り上げられるきっかけとなるはずだ。議論が一般化するという意味でも歓迎すべき傾向だが、強いていうなら、同誌の特集では、もし貧困であると感じたら、まずどうすればよいか、という点がやや手薄に感じた。前述の政策のあり方の議論を含めて、今後そのような議論も期待したい。

2015年4月9日木曜日

新島とサーフィン文化




新島とサーフィン文化について、紀要に執筆しました。これまでも時々、手が空いた折に、サーフィンに関する論文を書いてきましたが、筆頭で書いたのははじめてかもしれない。

西田亮介,2015,「新島とサーフィン文化」『創地共望――立命館大学地域情報研究センター紀要』3,1-11.

以下から電子版もダウンロードできるみたいですが、epub版だとか・・・それはそれで良いけれど、普通にPDF版も置いておいてほしいものですね・・・あとWebのデザインもどうにかしたほうが良い気がする。
http://www.rirc.ritsumei.ac.jp/doku.php?id=%E5%88%8A%E8%A1%8C%E7%89%A9

2015年4月6日月曜日

社会に政治を理解し、判断するための総合的な「道具立て」を提供せよ――文部省『民主主義』を読んで

18歳への選挙年齢引き下げや昨今の投票率の低下にちなんで、主権者教育や市民性教育が急がれるという。それは一体どのようなものになるのだろうか。
首相「主権者教育を進める」 選挙権年齢引き下げで 衆参代表質問- 産経ニュース
最近の定番は、模擬選挙である。
模擬選挙:選管、出前授業に力 18歳引き下げ見据え- 毎日新聞
模擬選挙とは、上記の記事にもその様子が具体的に描かれているが、昨今の人口動態などの幾つかのデータを見ながら、投票を体験する企画である。実物の投票箱を使ってみたり、選挙という行為を模倣することで、選挙に対する敷居を下げようということが企図されているのだろう。筆者もこうした企画のコメンテータを務めたことがある。
2014年12月の衆院選の投票率が、52.66%と過去最低を記録し、投票率向上を企図するなかで、頻繁に行われるようになっている。総務省や、「明るい選挙」を推進する明るい選挙推進協会も積極的に推奨しているように見える。
選挙の普及啓発事業は、マンネリ化しているということは、総務省の報告書も指摘している(総務省『「常時啓発事業のあり方等研究会」最終報告書』(リンク先PDF))。また教育における公民教育と、政治的中立という相反する課題の超克の困難についても言及されている。
最近では、2012年の衆院選を告知するポスターに、AKB48のメンバーが起用されたり、各地でゆかりのタレントを起用したりといった悪戦苦闘の様子も伺える。こうした効果測定がまったく困難な事業と比較すると、模擬投票はなんとなく良さそうに見える。
だが、本当にそうだろうか。
模擬投票は実際の政治的選択の泥臭さから離れた上澄みに終始する。そして政治的中立を維持するため、個別の、そして実際の政治状況と政局を再現しない。ということは、模擬投票で行っている意思決定は、定義上、実際の選挙と異なったものにならざるをえない。選挙を理解することには役立つかもしれないが、実際の選挙における選択のためのトレーニングになるかといえば、期待薄といわざるをえない。
本来、選挙で選択するにあたって、政策と実現可能性、展望、争点、候補者と政党の過去の履歴等々を考慮したい。もちろん、完璧な知識などというものは存在しないし、考慮の範囲は人によって異なるし、そもそも政治は理性ではなく、感情のゲームであるという議論もある。
だが、せめて、政治を理解し、判断するための総合的な「道具立て」が機会として提供されたうえで、という話になるのではないか。今のところ、日本ではこのような「道具立て」を修得する機会は一般化していない。政治経済は原理原則が中心、現代社会は人権問題や環境問題といったイシュー別に構成されている。中等教育は言うに及ばず、大学でも法学部や政治学部でもない限り、政治や民主主義について考える機会は多くはない。
ということは、投票年齢を引き下げるにしても、こうした「道具立て」なしに投票を迫ろうとしていることになる。意味はあるのだろうか。
ところで、最近当時の文部省が1948年から1953年まで用いていた『民主主義』(上下)を読む機会があった。このテキストは、GHQの指示で作成が指示され、法哲学者の尾高朝雄が編纂したことが知られているが、大変充実した内容で、いまなら、大学で使うにしても難しく感じてしまうような守備範囲の広いものである。「民主主義とはなにか」からはじまり、留意点、ファシズムや独裁との差異、資本主義と社会主義の対立、日本の民主主義定着の歴史、民主主義を維持する方法論等々、どうやって、そしてどのような教師が、この教科書を用いて、またどのような授業を行っていたのか大変に興味が湧く内容であった。
現代において主権者教育や市民制教育といったときには、なぜ、こうした内容を取り扱うという話にならないのだろうか。もちろん、時代錯誤的であるという批判はあるだろう。事実、上記のテキストに対しても、多くの批判が投げかけられたようだ。だが、このテキストが示すのは、かつて、第2次世界大戦の敗戦後に、恐らくはもっとも真剣に、日本に民主主義を定着させようとした時期に、これだけの内容を扱う必要があると考えられたという事実は重たい。
むろん、教育コストの課題はある。だが、日本の政治と民主主義は、未だにどこか「由らしむべし、知らしむべからず」といった雰囲気がある。これを、いかにして支えるのか、そのための教育とはどのようなものであるべきなのか。政治を理解し、判断するための総合的な「道具立て」を、いかにして社会に提供するのか、昨今の投票率低下や、選挙の普及啓発に関連して、今一度考えてみたい論点である。

2015年4月5日日曜日

2015年4月1日水曜日

「若者が投票に行かないから、若者向け政策が実現できない」という政治家を信用するな。

投票年齢の18歳への引き下げに関連して、若年世代の投票率の低下が話題になっている。関連して、よく耳にするのが、まことしやかに語られる「若者が投票に行かないから、若者向け政策が実現できない」という言葉である。したり顔で、このようにいう政治家さえいる。
先日の衆院選では、戦後最低(つまり、過去最低)の52.66%を記録した。なかでも、20代の投票率は37.89%を記録し、確かに世代別で見ると最も低い。
明るい選挙推進協会 衆議院議員総選挙年代別投票率の推移
だが、20代の投票率が30%代になったのは現在に始まった話ではない。衆院選に限定すると、概ね1996年の衆院選以来、郵政選挙や政権交代といった特別な例外を除くと、一貫して同様の傾向にある。20年前の20代、つまり現在の40代が20代のときも、現在の傾向と変わらない。20代から60代まで、原則として、世代が上がる毎に投票率があがる傾向は、1969年頃からほぼ一貫している。
しばしば指摘されるのが、家族を持ったり、ライフサイクルの変化によって、政治参加の意識も増すという点である。わかりやすくいえば、家族ができたり、社会的に成熟するにつれて、政治的な意識も高くなっていくという意味である。
ただし、やっかいな要素が人口動態である。よく知られているように、少子高齢化社会の日本では年長世代に人口が偏っている。
厚労省の『平成25年 我が国の人口動態』によると、現在の団塊ジュニア世代(現在の60代半ばの世代)前後の出生数(≒その年に産まれた子どもの数、死亡等もあるので、)が260万人前後であるのに対して、2010年代にはいって100万人前後にまで減少している。ちなみに現在の20代の90年代半ばの世代は120万人前後である。
つまり、かつては、若年世代は投票率は低かったものの、人口ボリュームが多かったので、票数でみると、若年世代もそこそこの票数があった。ところが現在では、投票率も低いうえに、人口ボリュームも小さいので、格段に若年世代の票数が少なくなっているという現状がある。
これらを踏まえると、「若者が投票に行かないから、若者向け政策が実現できない」という言葉になるのだろう。いちいち挙げないが、ちょっと検索するだけでも、少なくない政治家が同様のニュアンスの発言を、実にさまざまな文脈で語っていることがわかる。漠然と良い活動のようで、聞こえもよい。政治家も気軽に参加しやすいという理由もあるのだろう。
しかもこの文脈は選挙の普及啓発とも合致するので、当の若年世代も積極的に巻き込みながら(たとえばパネリストとしてキャスティングしながら)、しばしば「若年世代の投票率をあげよう」というキャンペーンやムーブメントとも結びついている。
むろん、若年世代の投票率向上キャンペーン自体は否定されるべきものではない。だが、こうしたキャンペーンばかりが陽の目を見ることで、その他の構造的な問題が覆い隠されがちなことに留意したい。
たとえば、高額な供託金は若年世代の立候補の少なくない妨げになっていると推測することは容易だが、これを引き下げようという話は一向に聞こえてこない。たとえば、衆院選の選挙区、知事選で300万円、政令指定市の市長選で240万円、市区長選で100万円、地方議員選挙で30万円~60万円の供託金が、立候補にあたって必要である。
一般に、まだ収入の少ない若年世代の負担感のほうが相対的に重くなると考えられる。しかしこれを引き下げるという話題は、やはり現職にとっては競争相手が増える可能性があり、触れたくない話題なのか、あまり表立っていわれることはない。政治家の高齢化がいわれるが、若年世代からすれば、同世代の候補者がいれば共感して応援したくなるだろうから、供託金の金額を引き下げて、立候補しやすくするというのはもっとも単純な方法と思われる。
それから、先に人口動態に言及したが、そもそも少々の投票率の向上では、とても年長世代の票数には及ばない。投票年齢を18歳に引き下げたとしても、そもそもの人口ボリュームが小さく、よほどの投票率の向上(あるいは年長世代の投票率の低下)が生じない限り、その影響はあまり大きくない。つまり、高齢者と同程度の票数になるように若年世代の投票率を向上するというのは、現実には実現不可能な要請で、投票率の18歳への引き下げも、強いていうなら付け焼き刃的である。
そもそも、よく考えてみると、普段、政治家たち(それから、政党)は、それほど「国民の声」を政策に反映して政治を行っているだろうか。消費税率の引き上げを我々は望んだだろうか。若年世代の問題だけ、突如として「若年世代が投票に行かないから、実行できない」などというのは、やはり無責任なご都合主義というほかない。
かつて、著名な社会学者(政治学者)マックス・ウェーバーは、政治家という職業に、特別な倫理観と信念を求めた。いろいろな雑音があっても、自身の見地から正しいと信ずる道を貫くべき、と。
むろん、圧倒的に泥臭い現実の政治の前では、青臭い、理想に過ぎない。統一地方選挙の季節である。もし「若者が投票に行かないから、若者向け政策が実現できない」という政治家を目にしたら、投票のまえに、立ち止まって熟慮してみてもよいかもしれない。