2013年2月13日水曜日

日本の「契約」文化――あるいは「ノマド」を日本で他人に進めにくい理由?

「契約書」ベースで働くようになって、5年くらいになるだろうか。あまり知られていないかもしれないけれど、任期付の大学教員や非常勤講師、公的機関の調査研究職は毎年契約書を交わしていることが少なくない。ちなみに転職の回数も多い。ぼくもおそらく一般的なサラリーパーソンよりはだいぶ多い転職回数になっている。先日も、現在の収入のポートフォリオのなかでは比較的大きな契約を更新した。

毎年そんな時期になると、「おかしいなあ」と思うことがあるのだけれど、たいていの「契約書」は、向こうからひな形の書類が送られてきて、それに判をついて返すだけ。そのひな形は、たとえば大学であれば職位・職種に応じたいくつかのパターン(メニューはだいたい10種類くらい)のなかから選択されている。とても給料の水準や勤労条件について調整したり交渉したり、という余地は事実上残されていない。「既存の条件で契約するか、契約しないか」というのが現状である。もちろん外資系企業や、一部の先駆的な企業は違うのだろうけど、大学以外にもこれまでいくつか仕事をしてきた公的機関や地方自体といった、伝統的な日本的組織はたいていこのパターンだ。

安定性云々や終身雇用はさほど気にならないのだけど、契約ではなく契約の条件交渉ができないことにはとても違和が残る。というのも、この「一律のパターン」で契約する形式は、社会経済環境の変化、あるいは個人状況の変化に対して、迅速かつ柔軟な対応が期待しづらいからだ。この手のものを変えるには、いくつも会議を開いて、決済をとって...という手続きが起こるのだろうが、随分時間がかかるだろうことは容易に予想できる。しかし、今のところたいした影響はないけれど、たとえば今後アベノミクスで緩やかなインフレ傾向になったとしても、一律固定化された環境では給料の伸びは期待できない。ごちゃごちゃした意思決定がようやく終わったころには、契約期間も終わっている、ということにだってなりかねない。

このような「契約」の慣習が旧態依然として残っている環境のなかでは、ノマドや起業は人に進めにくい、ととってつけたように思った。もう少しまじめに付け加えておくと、もちろんこういう不利な環境のなかでも成功する人はいるだろう。しかし、不利な環境のなかでも成功するという場合、大別すると、①傑出した才能、能力、努力等がある、②傑出した製品、ビジネスモデル、市場の発見等にたどり着いた、③傑出してラッキーだった、といった某かの「傑出した」要素がきいている可能性が高い。起業家やフリーランスで成功された方は本当にすごい、と思うけれど、なおさらのこと一般的に(たとえば学生たちに)起業やノマドを勧めるなんてことは無責任ではないか、と思ってしまう。もちろんこういった「成功者」が増えてくれば、少しずつ「契約」の慣習も変わっていくのだけれど、そういった環境の変化が共有されていない状態で起業やフリーランスのすすめ、みたいな言説が広まっていくことは危なっかしい気がしてならない。